日記

新刊『こいわずらわしい』、発売されました。読んでいただいた方からの感想を眺めるのが楽しいです。ぜひ感想をつぶやいていただけると励みになります。
亜紀書房のWebでも、担当敏腕編集の田中さんが本のみどころを書いてくれました!
元になった連載から刊行までだいぶ間が空いてしまいました。試し読みとは別にテキストに興味を持ってもらえることを願って、本と関係あることやないことをもう少し頻繁にここに書くようにします。

本の中で、「恋愛は好事家のためのエクストリームスポーツ、くらいの位置づけになればいい」と書きました。「誰もが恋愛すべき、つがいになるべきというのは幻想である」というだけでなく、好事家にとっては底なし沼のような世界だなあという思いも含まれています。ここでは、好事家というのは「恋愛的な力関係に敏感な人」という意味で、わたしもそこに含まれています。
いろんな人の恋愛の話を聞いていると、「恋愛をはじめる能力」は個人差が大きいと感じます。仕事ができる人がいつも仕事のことを考えているように、恋愛体質の人は普通に生活していても、恋愛に割いている意識のリソースがたぶん高い。わたしが仕事ができない理由のひとつがいま明らかになった。
友人のひとりが「仕事でとっても怖い異性の先輩がいたんだけれど、ある日仕事の帰りに一緒にうどん屋に入ったら、その先輩がうどんを啜れなくて嚙んで食べていたんだよね。そのこちらの目を気にしてる感じを見て、ああこの人、たぶん押せば自分のこと好きになるし、そうなったら多分めちゃくちゃ優しくなるんだろうなと思った」と話していました。
これに反論する人はいくらでもいるのでしょうが、わたしはこの話を聞いて「特に好きでもない人との間に妙に可能性を見出してしまうこの感じ、すごく恋愛リソースが高い……!」と思いました。「笑顔で挨拶してくれたから俺のことが好き」とかじゃなくて、目のつけどころが細かい。
わたしはうどんでこういう気持ちになったことはないですが、何かの拍子に個人的確信を持ってしまう気持ちはわかります。もちろん完全にこっちの勘違いかもしれないし、そうだったらとんだ笑い種なのですが、こういう予感を裏取りしに行くことで恋愛がはじまる感じはわかる。

仕事ができないため、仕事中に関係ないことを考えてしまいがちなのですが、きょう仕事中に考えていたのは「猫岳の怪」についてです。
「猫岳の怪」は、猫がたくさん住む山の昔話です。阿蘇五岳のひとつ、根子岳に伝わるお話のようです。
旅人が山の中で道に迷って、やっと見つけた宿に泊めてもらう。なんだか宿の者たちの様子がおかしい。すると下働きのひとりが出てきて「ご主人、わたしはあなたにむかし飼われていた猫です。はやくここから逃げてください」と言う。ここは年を経た猫たちが集う化け猫のねぐらで、迷いこんだ人はこの宿でおふろに入ると猫にされてしまうのだ。
旅人は命からがら逃げ出すが、たくさんの猫が気づいて追いかけてくる。猫たちがひしゃくでお湯をかけてくるのをなんとか避け、夜明けを迎えて逃げのびるが、あとで見てみるとお湯がかかった部分には猫の毛が生えていたという。
この話、漫画や民話の本、「日本むかし話」でも見たことがあります。しかしどのバージョンでも不可解なのは、かつての飼い猫に会った旅人の反応がいまいち薄いことです。いなくなった猫に再会したら、いくら化け猫のねぐらであっても、そんなことどうでもよくなるくらい万感の思いがあふれると思う。
飼い猫に再会した上に「ここにいるとご主人も猫にされてしまいますよ」と言われたら、むしろ嬉しいと思う人は多いのではないか。少なくともわたしの姉は間違いなく「えっ、いいの?」って言う。「我々の業界ではご褒美です」と言うかもしれません。
これでは「猫岳の怪」ではなく「猫岳の快」になってしまう。そのようなことを考えていたので、今日も仕事ははかどりませんでした。